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レポート

2018.05.10

小田原城総構を歩く(大外郭の会 山本篤志さん)

北条氏の小田原のまちづくりについて考える

みなさんは小田原の「まち」がどのようにして造られたのか考えた事はありますか?

小田原というと神奈川県内では鎌倉と並んで歴史の古い街というイメージがあります。
鎌倉の場合は源頼朝が鎌倉幕府を開いたので鎌倉時代には日本の首都として大変栄えました。

では、小田原はどうでしょう?

小田原の場合は戦国時代に小田原北条氏(以下北条氏)が関東一円を支配し、その首都として小田原を選びました。『北条記』という古い文献を読むとその当時の小田原の町はとても栄えており、京都にも勝るほど物に溢れていたと記されています。

また、現在の市民会館の前を国道一号線で少し東に向かうと、唐人町という町名がまだ残されています。
唐人町の唐人とは中国の人を意味しており、戦国時代では唐人町に中国の人たちが住んでいたと言われています。
海に面した小田原の町は海外との貿易も盛んだったようで、小田原城の支城の一つである八王子城からはベネチア産のレースガラスまで出土しています。
小田原城天守閣

小田原城天守閣

唐人町

唐人町

小田原城の総構とは

障子堀の画像

障子堀のイメージ

天正18(1590)年、北条氏は豊臣秀吉の来攻によって滅んでしまいますが、 北条氏は秀吉を迎え討つために全長9kmにもおよぶ総構(そうがまえ)を築いて小田原の町を守りました。
総構とは何でしょうか?

総構とはお城の外郭、外堀を意味します。
お城のお堀というと水堀を想像するかもしれませんが、小田原城の場合は障子堀と言われる特殊な空堀でした。
障子堀とは途中にわざと堀残しの壁を造り堀の中を敵兵が歩けないようにする空堀の事で、敵兵の行動範囲が狭くなるので、城兵からは狙い撃ちがし易くなるといった効果をもちます。
山中城の障子堀

北条氏の支城「山中城の障子掘」

また、小田原の地質には関東ローム層と言われる赤土の粘土層が表面を覆っているため、
一度堀に落ちると滑りやすく中々這い上がれないと言われています。
そして、障子堀の障壁がそれぞれダムとして機能するため水が溜まり、傾斜地や丘陵地でも水堀が造れるという効果も持っています。

さきほど、小田原城は空堀と書きましたが、実は総構の堀は水堀としての役割も担っていたのです。
実際に、発掘作業の現場では堀底から水溶性の堆積物が見つかっています。

このように関東ローム層と障子堀、総構で武装した小田原城は秀吉も手を焼いて直接攻撃を加えるのを諦めて持久戦に切り替えたと考えられています。実際、籠城戦は約100日にも及び、この間小田原城は秀吉軍の侵入を一切受け付けませんでした。
京都の御土居図

京都の御土居図

それを証明するかのように、小田原合戦終結後に秀吉を始め配下の武将たちは自分たちのお城に総構を築いています。

天下統一を果たした豊臣秀吉は、長い戦乱で荒れた京都の都市開発の一環として、外敵の来襲に備える防塁と鴨川の氾濫から市街を守る堤防として、天正19年(1591)に多くの経費と労力を費やして土塁を築きました。
現在の京都でも、部分的に御土居が残っています。(京都 御土居図) 

また、秀吉の居城大阪城からは障子堀も見つかっており、他の全国のお城からも障子堀が出土したという報告が聞かれています。

小田原のルーツは総構にあり!

江戸時代の小田原文久図

江戸時代の小田原 文久図(小田原城天守閣所蔵)

以上の内容はNHKの『ブラタモリ』でも紹介されたため、放送をご覧になられた方はご存知の方も多いかと思います。タモリさんが番組の最後の方で「城下町は戦の時に真っ先に焼かれてしまうため住みたいけど住みたくない町。だけど総構があれば安心して暮らせる。」と言われていました。
タモリさんが言われるとおり、それ以降の城下町は大変発展し、現在も日本の主要都市として経済を支えています。小田原城が日本全国に及ぼした影響力の深さは計り知れないものがあるのです。そして、小田原に残された総構はその後も城下町と他の村との境界として利用され、城内を御府内、城外を御府外として区別しました。明治維新後も小田原町の行政区画として総構が基本になっており、現在の小田原市は大きな都市に発展しましたが、古い人は未だに御府内という呼び方をされます。つまり、「小田原のルーツは総構にあり!」なのです。

おわりに

総構見学会の風景

総構見学会の風景

私は小田原城の研究と活用を主な活動としています。実は少しですけど『ブラタモリ』の制作にも協力していました。
番組でタモリさんが歩かれたように、総構は小田原の町の中に影を潜めて残っています。

場所によっては400年以上前の当時の姿をそのまま残している場所もありますが、道路や水路として形を変えてその痕跡が残る場所もあります。そうした総構の痕跡を探しに街の中を歩いてみましょう。小田原が持つ地歴を知ることによって皆さんにもっと小田原の街を好きになって欲しいと思います。

今回は前置きとして総構とは何か、小田原の街が総構によって造られていることなどをご紹介しました。
次回からは、実際の総構の現状とその場所を紹介していきます。実際に現地に訪れて北条氏の築いた日本一のお城を見学しましょう。
大外郭の会 山本 篤志

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