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レポート

2016.12.13

【対談】宮大工棟梁 芹澤毅棟梁 × 経済学者 井手英策教授 その1

小田原城天守閣の大改修において、市内の林業関係者や大工を束ねる棟梁として、最上階の摩利支天像安置空間を再現した芹澤毅棟梁。
小田原へ移住し、すっかり小田原を気に入った新進気鋭の経済学者、井手英策慶応大学経済学部教授。
職種も経歴も全く違う、小田原を愛する二人が、小田原のことやこれからの社会のあり方、それぞれの生き様などについて対談しました。
(2016年7月銅門内部にて)
芹澤毅棟梁×井手英策教授対談
芹澤毅棟梁と井手英策教授の対談のようす

お城は市民の気持ちを一つにする原動力

井手 英策氏(以下:井手): 今日はよろしくお願いします。
芹澤 毅氏(以下:芹澤):よろしくお願いします。皆さんもありがとうございます。天守閣のリニューアルの際には、皆さんにお世話になって。おかげさまで、「地元の人が、こんなことが出来るんだよ」ということを、色々な人に存分に伝えられたのかなと。
天守閣のリニューアルは終わったけれど、私はスタートだと思っています。これから、時代が変わりつつあるところで何ができるかを、業種に限らずみんなが探している、模索しているところだと、そういう気がします。そこの根源が何かというのは、私のような偏った世界の人間では分からないけれど、そこを全国を見ている井手さんの知見で言ってもらえると・・・、学者って言ったら失礼なんですかね?
井手:いえいえ、学者です。しかも立派な(笑)。
芹澤:大工や建築業のスタイルを学者の目で見た時に、広い視野からどう映っているのか。これからの私たちの持っていき方というのかな?自分のやっていることの軸は変わることは無いと思うんだけれども、「何が良くて、何が悪くて、何をどうすればいいのか」を知っておくと、ちょっとした行動力でガラッと変わることがたくさんあると思うんですよね。
我々が、自分の力で知ることはできないところを、井手さんのような人からアドバイスをいただき、糧にしていきたい。
井手:今、「学者として大きなところから見てほしい」という話があったんですけれど、もう一つ、「よそ者」ということが僕の強みだと思っています。引っ越してきて3年目になりますけど、まだ小田原のこと分かっていないんですよ。分かっていないからこそ、すごく一つ一つの出会いとか発見が新鮮で、「ああ、小田原って、こういうまちなんだ」と感じる。良いところも悪いところも、本当に新鮮に、スーッと自分の中に入ってくるんですよ。
小田原にいる人たちって、良いところ悪いところ、皆さんご存じなんだろうと思うけど、本当は10くらいの良いところが6くらいにしか思えなかったり、本当はマイナス1くらいがマイナス10くらいに思えたりっていうのがあると思うけど、僕にはそれがない。「小田原ってどれが一番すごい?」と聞かれると辛いんだけど、「お城があるということはこんなにすごいんだ」と思っています。
平成の大改修を終えた小田原城
この間、朝日新聞の記事(平成28年6月30日(木)朝刊)で小田原城リニューアルオープンの入場料を熊本城に寄付するという話を記事にした時に、全国からものすごい感動の声が寄せられたんです。記事を書く前から「なんでみんな、寄付でこんなに感動するんだろう」と思っていたんですが、熊本にはお城があって、小田原にもお城があって、熊本の人と小田原の人は「お城」という共通点があるんですよね。芹澤さんもそうだと思うけれど、小田原の人達が、「もし自分たちの城が熊本城のように半壊してしまったら、どういう気持ちになるんだろう」ということを考えて、熊本の人達の気持ちが痛いほどわかったんだと思うんですよね。そして、あの動きになって、僕は単にそれを紹介しただけだけど、みんなが感動してくれた。でも、それって結局、「ああ、俺達って、つながりを求めているんだな。」と思って。だから、お互い「何が違う」「どこが違う」じゃなくて、「こことここが同じ」で、そして、気持ちを分かち合って、その中で「俺たちにできることは何なんだろう?」と考えることを、小田原と熊本の人達だけじゃなくて、みんなが求めているんだなと。
その象徴というか、「小田原の人達にとって、何か一つ」と言われたときに、「それってやっぱり城じゃないの?」と言える、市民の気持ちを一つにしていく事ができる原動力みたいなものがあるってことは、本当にすごいことだと思います。
芹澤:これだけ人の共感を得るためには、文化とか背景にシンボリックなもの、例えば今回では「城の存在感」というのが、かなり大きな役割を果たすなと感じました。
井手:やっぱり、気持ちって人間には見えないじゃないですか。でも、そのみんなの気持ちを束ねる何か、「お城」という存在は見える。だから、もしも壊れてしまうとみんなが傷つくし。
芹澤:そうですね。そんな話に付随して、先日東京で文化財に関する研究会があったんですよ。そこで、とある方から、ものすごくいい話を聴いたんです。今まで、自分の中で、文化財保存の概念というのは、なんとなく、ボヤーっとしていたんです。よく、「何が大事で、何が必要か。根本は何かを考えれば、そんなものは見えてくるんだよ。」と言うんだけれど、実はそれは、ボヤーっとしていて、何が根本で、何が大事かが見えないんです。その研究会で、ある方に講演していただいて、その見えないものを、一つの例えとして明確にしてくれたんですね。その話のテーマが、その方とは違う意味になってしまうかもしれないけれど、僕の感じた感覚でいうと、「想い出」というキーワードだったんですよね。その方は、「文化財とは何かというと、一つの『想い出』というものに象徴される」という表現をされていたんです。「想い出」がキーワードというのは、実はみんなそれを持っているんですよね。家族の想い出、友達の想い出、小さい頃の想い出。想い出というのは、空想の中でボヤーっとしているものなんだけれど、すごく大事なものですよね?想い出が、過去が、今の自分を作って、その解釈で、未来を予測して、我々は行動に移っていく・・・。すなわち、想い出というものは、ものすごく重要な存在で。「文化財保存の意味というのは、想い出を視覚として、空間として捉える唯一の物体であるから」と言われていた。つまり、「財」なんだと。例えばこの銅門は、復原されて江戸時代のものではないんですけど、ここに来ると、想い出の空想が目で捉えられて、「ああ、昔の人達はこんなことを手でやっていたんだな」「この要塞から、敵が攻めてくる様子を見ていたのかな」と思える。
井手:あそこに「石落とし」もありますしね。
芹澤:そういうことを直感できる唯一の財産だとおっしゃっていた。「想い出」という部分にものすごく共感するところがあるからで、文化財とは何かを考えた時に、なぜ保存しなければいけないのか、なぜ大事にしなければいけないのかというと、やはり「想い出」というものが詰まっているからこそ、当初のまま、少しでも近い形で保存して、次の世代に渡していくということがとっても大事なんじゃないかと思うんですね。修理の時に、よく橋が腐っていたりすると、仕事としてはある一定の部分を取ってしまって、取り替えてしまえば良くて、簡単で、コストもかからない。でも、取り替えてしまったら、そのオリジナルは、もう二度と見ることができない。次の世代の人も見ることができない。ほんの少しでも、そのオリジナルが残っていれば。それで、この時代に修理したところが合わさっていれば、「ああ、本当のオリジナルはここの部分で、この時代の人はこういう考えをもって、ここを修理したんだな」と、次の代の人がどう修理したらいいか考えるんですよ。実は、現在われわれの仕事はまさにそれなんです。今の時代でどう考えて、昔の想い出を大事にしていくか。当時やっていた、先人たちの技術を尊重しながら、そこに自分たちの考えを加味して。答えを出すのではなくて、最善のことをやる、そして、次の代に渡すということが大事なんじゃないかと。
井手:それ、ちょっと教えてほしいことがあるんです。僕たちが勉強する時、あるいは実際の政治を見た時に、「保守」という考え方と、「革新」という考え方がありますよね?でも、政治の中では「保守」というと、「靖国に行かなければいけない」「日の丸・君が代を愛さなければいけない」、つまり、「○○しなければいけない。」ということがあるわけですよね。もちろん、「革新」の方にもあって、「原発に反対しなければいけない」とか、「日の丸・君が代も反対しなければいけない」といったことがあるんです。今おっしゃった「保存」って、「僕の想い出」、「あなたの想い出」というよりも、「地域社会の想い出」がそこに詰まっているということですよね?それを守っていくというときに、先ほどの保守や革新の考え方のように、ガチガチで「こうしなければいけない」と言われるんじゃなくて、僕たちが守るべき大事なものを持っていて、「それは大事なものなんだから、守っていかなければいけない」という風に、自分が守るべきものを持っているから、内側からグッとその想いが溢れてきて、大事にしていかなければいけないという・・・。
芹澤:私たちがただ「文化財を守る」と喚起しても、あいまいで届かないと思うんです。それを、「想い出」という誰もが持っているその感覚を共感させてくれたのが、先日の講演でした。僕の目から見ても、私の仲間の木造、建築業界から見ても、自分たちの努力不足なのかもしれないけれど、やっぱり時代の圧力や流れから見ると、今の社会に役に立つものだけが必要で、そうじゃないものは、「コストがかかって余計なものは必要じゃないんだよ」と、なんとなくそんな雰囲気があるんですよね。
井手:保存や維持がコストになっているんですよね。そのために金がかかるという。
芹澤:でもそれは、「やっぱりコストだけじゃないんだ」というものも世の中にたくさん存在していて。

成長とは、修行が積み重なった結果である

芹澤毅棟梁
芹澤:とある雑誌の中で「修行」について書かれている記事を読んだことがあるんだけど、そこには「修行なんていらない。なんのために修行するの?」と書いてあって。修行しなくたって今の時代、すぐ技術者として成り立っていく・・・。それは、機械や、色々な事の進歩があるからなんですよね。その中で、一人の職人さんが、私と同感の言葉を述べていて「修行と言うのは、職人になるための前座ではないんだ。一生修行しなければいけない。修行すれば職人になれるわけではない。職人になる以上、一生ついて回る。」と。方法論でもなんでもないんですよね。「修行しなければ○○になれない」とか、そういう解釈ではないんです。
井手:それは、学者の世界も同じなんです。例えば、修士課程と博士課程で5年くらい大学院に行くんです。「5年間勉強したら学者になれる」とか、「将来安泰だ」とか考えられがちだけど、でも、5年だけじゃない。本を読んで、勉強すると、「自分が分かっていない」ということがどんどん分かってくるんです。そうすると、明日もその次の日も、ずっと本を読んで、知れば知るほど自分が分かっていないことに気付いていくから、一生考え続けるしかないんですよ。
芹澤:その感覚、井手さんと僕の中の共通点で言うと、僕は、自分で作ったものが、3年くらいすると、時には壊したくなるような感覚になることがあるんです。
井手:一緒、一緒(笑)
芹澤:きっと、井手さんも、自分が書いた本を取り下げたくなることがあると思う。それはなぜ起こるかというと、前に自分で分析したり、時には人にも言われたこともあったんですが、その感覚を得られるのは成長した人だけなんです。その時に満足してしまうと、3年後も満足してしまう。「ああ、良い仕事したな」と。でも、成長している人は必ず上積みしているから、上積みした自分が過去の自分を見ると、やっぱり落ちるんですよね。それが僕は、成長であって、修行が積み重なった結果だと思うんです。
井手:毎年、授業をするじゃないですか?学生とか、みなさんもそうだと思いますけど、「どうせ毎年同じことしゃべってるんだろ」と思われる。でも、絶対違うんです。その次の年になって、前年自分が書いたものを見ると、しょぼくて話にならないわけです。結局、全部書き直して、全部授業の中で変えていかなければいけないわけですよ。これがずっと続くんだけど、でも怖いのが、どこかで、「ああ、もういいや」と思う瞬間がやってくるのかなと。芹澤さんの言う成長がずっと続けばいいんだけど、どこかで、自分の技術がピークに達して、そこからは「もう何だか・・・」という瞬間がやってくるんじゃないかと思って、すごく怖いんです。
芹澤:やってくると思います。でも、その時はもう、私は道具を置く時だと思っているし、道具を置く時が、死ぬ1秒前かもしれない。
井手:かもしれない。
芹澤:生涯を閉じる10年前かもしれない。それは分からないけれども、いずれにしても、道具を置く時は修業が終わる時で、職人としては幕を閉じる時だと思います。残念ながら、さっきもちょっと話しましたが、必要化社会という、なんとなく洗練されたもので言うと、我々の場所は、非常に手狭なところになってしまっている。まちなみを見ても、街中の大工さんが現場でトンテンカンテンやっている風景が、20年前までは普通に目にしていました。子どもが現場に入って遊んだりしていると、怒る棟梁がいて。御施主さんと職人さんの間柄、信頼関係も、そこで確立できていて。一度建てた家も、そこで終わりにしないで、その大工さんはその家の内部事情や構造を全部知っているんですよね。そこから親戚関係がはじまるんですよね。自分が建てた家は、もう親戚なんです。親戚の家に何か不備があった時には、跳んで駆けつけて、修理をして。そういう信頼関係が、街中の住宅のシステムにはあったんですよね。それが、なんとなく、何と表現したらいいか・・・、産業化されて、商品化と言ったらいいのか、売ってしまえば終わり。あとは保証書を書いて、と。
井手:人間と人間が出会って、話し合う中でないとできなかった事って、きっとたくさんあったんだと思います。今、それをお金で片づけられるようになってしまって、別に大工さんじゃなくて、どこかのホームメーカーにお金を払って頼めば全部やってくれて、しかも型もできていて。別に親戚も何も関係なくて、横の家も殆ど一緒みたいな。そんなことになっていくんでしょうね。

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