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【対談】宮大工棟梁 芹澤毅棟梁 × 経済学者 井手英策教授 その3

小田原城天守閣の大改修において、市内の林業関係者や大工を束ねる棟梁として、最上階の摩利支天像安置空間を再現した芹澤毅棟梁。
小田原へ移住し、すっかり小田原を気に入った新進気鋭の経済学者、井手英策慶応大学経済学部教授。
職種も経歴も全く違う、小田原を愛する二人が、小田原のことやこれからの社会のあり方、それぞれの生き様などについて対談しました。
(2016年7月銅門内部にて)

理論だけでは解決できないことがたくさんある「まず、やんべぇよ」

井手:小田原の人達が良く使う「やんべぇよ」という言葉があるじゃないですか。さっきも言ったように、まず方言があるというのが嬉しいなというか、温かい気持ちになれるというのと、自分の子どもも方言がある大人になってほしい。それともう一つ、「やんべぇよ」という言葉を、みんながとっさに使う、その感じ。
芹澤:すごくよく分かります。僕の側から言わせてもらうと、角が立つ人もきっといるかもしれないけど、僕が感じているのは、物事が理論化されて、方法論が決まって、その後に行動するというのが一般的だと思うんです。だけど、職人、大工の世界の中で、自然の生き物を相手にしていると、その解釈が通用しない時があるんです。その一瞬一瞬で判断を下して。「やんべぇよ」の精神って、「まずは手を下す、理論は後でくっつけてくればいいんだ」と。手を下して、実務、実体だけを目の当たりにして、受け止めていくことが必要なときが多々あるんです。会議をして、理論を掲げて、答えが見えないまま手遅れになることがたくさんある。だから、行動して、「まず、やんべぇよ」という言葉を僕らは使うんです。後でどうなったかは、書類を作ればいいじゃないかと。なんか、世の中に反逆したような解釈も、僕の職では絶対に必要なことなんです。それは、なぜかというと、木と言う素材を扱う以上・・・。人もそうですよね。人の事を100%理論化して解釈するというのは気持ち悪い。そうじゃなくて、人には心があって、そこで感じなければいけない部分がたくさんあるんです。木も一緒で、一本一本育った環境が違えば、僕らはそれを一本一本手に取って、設計図にそう書いてあるからといって、そうやってしまうと、引けない部分がたくさんあるんです。だから、まずは置いてみて、それで良いか悪いか考えようよとやらなければいけない部分がたくさんある。僕らの仕事は結果が全てなので、理論は全く通用しない。「一所懸命やったけどうまくいかない」、そんなことは絶対通用しない。
木
生活の中の色々な出来事で言えば、例えばスポーツでも「一所懸命やったからいいじゃないか、その精神が大事なんだよ」ということはたくさん通用するんだけど、僕がやっている大工職と言う仕事は、その枠の中だけで言えば上手くできて当たり前、その当たり前のことをやるには、一生の修行が大事で、理論だけでは解決できないことがたくさんある。そういう職の中に生きているんですね。だから、事実しか信用できないし、その事実がどこにあるかというと、「100年持たせる家を作ってください」と頼まれたときに、計算するんじゃなく、100年、200年建っている家を見に行ってくるんです。そこで、自分のやっていることと照らし合わせて、答えを見つけてくるんです。「この部分は、こういう風に仕事していけば、ちゃんと200年建っているんだ。」「こういう材料を使えば、ちゃんと200年建っているんだ。」「じゃあこういう仕事をすれば良いんだ。」もっと言えば、環境まで出てくるんです。

海沿いなのか、山沿いなのか、環境によっても、その生き物のかかるストレスが違うから、環境もちゃんと見てきて、素直に建っている仕事から素直に受け取って、「先人たちのこういう仕事を同じようにすれば、100年、200年建つ建物ができるんだな。」と。確かな証拠を信用するということが、我々に大切なことなんですよね。人が書いた理論や設計図が、全く信用できないということではないけど、もっと奥深いものを確かめなければ、ちゃんとしたものをお客さんに提供できないというのが、私たちの職の解釈なんです。
井手:僕は、経済学を教えています。経済って、要するに「自然に人間が手を加えて、人間がそれを支配して、何か商品に作り替えて、人に売る」、これが経済なんです。経済は、資本主義とも言われますが、人間が自然を支配する、そして、その自然に力、圧力を加えることで、商品に変える、ここなんですよ。だから、今、芹澤さんがおっしゃった話というのは、経済とか資本主義と言われるような、今の世の中の基本にある考え方と、最も遠いところにあると思う。つまり、自然は支配できないし、しかも分からないから、自然と共に寄り添って生きる中で、どのように自然を活かしてやることが、人間にとって一番幸福になれるのかという事。木を幸せにすることが、人間の暮らしの幸せにつながっていくような、そういうイメージだと思うんです。
僕はこう見えても教育者、大学の先生です(笑)。教育って、人間に対して行うわけですよね。そうすると、一つの教育理論で全員を幸せにできたら、こんな楽なことはないわけです。同じことを言ったって、喜ぶ人もいれば、怒る人もいる。感動する人もいれば、引っ込む人もいる。だから、やっぱりその人その人に応じて、目線を広く持ってやっていかないといけない。それは、まさに芹澤さんがおっしゃったのと同じで、その時その時に応じて、「この子にとって何がベストなんだろう」と考えるのが教育の基本なんです。その時にいつも思うんだけど、みんなに対して細かな目配りをしていくという事は、確かにある。芹澤さんも色々な所で細かな目配りをしていくんだと思う。でも、その中で、一番大事なものというのかな?上手に言えないんだけど、僕の経験で言うと、あるパーティ(編集注:第15回大佛次郎論壇賞 受賞祝賀パーティ)でスピーチしたことがあって、ああ、芹澤さんも来てくださったあのパーティです。
芹澤:あのパーティ(笑)。
井手:あのパーティの時に、たくさんの人がいて、僕の家族もいたじゃないですか。僕、その時、みんなに語り掛けるんじゃなくて、僕の目の前に座っていた家族に語り掛けたんです。普通、しゃべる人って、みんなを感動させようとして、みんなに向けてワァーっと良いこと言うんだけど、そうじゃなくて、大事な存在ってやっぱりここ(家族)だから、「ここに向けて自分の感謝の気持ちとか想いを伝えていけばそれで充分なんじゃないか」って。開き直って話をした時に、逆にみんなが猛烈に感動して。そういう、「この子にはこれ、この子にはこれ、この子にはこれ」という考えが、教育者なので僕にも確かにあるんだけど、そこに尽きないんです。教育者としては絶対言っちゃいけないんだけど、一所懸命やってくれる人だとか、真摯に疑問をぶつけてくれる子は、やっぱり可愛いんです。たぶん、芹澤さんも、木はみんな同じというより、可愛い木があったり、そうじゃない木があったりするんじゃないかなと。本当に大事なものを大事にしようということが、結果的に教育全体にとっても良いことになっていくような、そういう世界もあると思うんです。

「選ぶ」ということは「背負い込む」ということ

芹澤:今おっしゃった事、対生徒、対木材・建物で言うと、一番共感できたことは、また職の話で申し訳ないんだけど、修理をする時には正解がないんですよ。今、井手さんがおっしゃったように、色々な方法論を持って、何が大事かという選択肢をすることが大事なんですよね。3つの選択肢しか無い人が、1つの方法論を選ぶよりも、10個の選択肢を持っている人が、何が必要かを選ぶことは全然違うんですよ。先ほどおっしゃったように、万人の生徒に接する時に、その3倍、4倍、5倍の方法論を持っているから、的確にそれができるんですよね。自分の持っている裁量や方法論が無限大に広がっていくわけで、それが、学者にとっての、職人にとっての勉強のカテゴリになってくる。一つのものを極めようと思うと、ものをたくさん知って、判断をするということが一番求められるんです。
井手:そうですね。子どもたちも、さっきの話に戻っちゃうけど、色々な経験とか・・・。僕、一番思うのが、「選ぶ」ということは「背負込む」ということなんですよね。自分の人生を決めるわけじゃないですか。リスクも当然ある。でも、リスクを背負って、自分の想いでこの道を選ぶという事ですよね。今、教育の現場ですごく感じるのは、子どもたちが何かを背負うとか、リスクを取るという経験を、殆どしないまま大きくなっているという事です。だから、小学校などでも、先生たちが子どもが危なくないように、リスクに直面しないようにして、そうしないと保護者がどんどん文句を言っちゃうんですよね。先生たちも保護者に怒られるのが嫌だから、子どもたちが危なくないように、リスクを取らなくていいようにして、これで、大学まで来ちゃうわけですよ。なんて言うか、いきいきとした学生が減ったし、「自分でこれを選んだんだから、そのために自分の人生懸けるんだ」「色々なものを背負うんだ」という想いを持てるような子は本当に減っていると思うんですよ。
芹澤:そこの部分は、そういう風な社会を作り上げてきてしまったわけじゃないですか。責任を背負う事が苦手になってしまって、何かそれを、ルールブックに委ねてしまって、本当は誰かが責任や義務を果たせば済むことなのに、それを少しずつ少しずつ嫌がって、「ルールブックに書けばそれで済むんだ」と、そういう世の中をズーッと作ってきてしまって、自分達で作り上げたルールで、自分たちの足を固めてしまったものだから、動くことが・・、自縛してしまっているんですよね。自分で自分の首を絞めてしまっていることがたくさんある。今、大事なことをやろうと思ったら、ものすごい決意が必要なんです。僕も、毎日と言って良いほどそういう事に直面して、毎日心が砕けている。で、井手さんのような、共感できる人の言葉にまた元気をもらって、また砕けて。そんなギャップの中で生活しているんですよね。みんなが本当にいいねと思う事はやればいいのに、それをやるためには、今まで足を固めてきたものを解かなければならない。解く時に、もしかしたら、これまでのルールを破るかもしれない。でも、ルールを破る覚悟を決めなかったら、今の世の中で良いことをやろうと思ったときに、できることはものすごく少ないんです。
摩利支天安置空間の将軍柱を確かめる芹澤棟梁

その一つの象徴として、みんなの知恵を集めて出来た事、それが、天守閣の事業であったり、井手さんが記事を書いた熊本への寄付であったりということ、つまり新しい方法論だと思うんです。それは、今の社会からみれば数パーセントのことであって、でもその数パーセントを大事にしなかったら、この先もっともっと自分の首を絞めていってしまう社会ができてしまう。それは僕の職も一緒で、たぶん、他の人も一緒なんじゃないかなと僕は見ています。だからこそ、自分の職の中で、何をどう掛けて、自分が犠牲者になってやることが、新しい風穴を開けることなのか、それとも、みんなと一緒に考えて何かを生み出していく事が良いのか、果たして、それだけの時間が自分にあるのかどうか、という境遇で毎日過ごしているんです。
井手:さっきの、保存とか、守るべきものを守るという話があったじゃないですか。さっきの「やんべぇよ」の話もそうですし、今の話って、まさにその話なのかなと。要するに、何かを背負って、「世の中をもっと良くしてやろう」、「業界をもっと良くしてやろう」、何でもいいんだけれど、何かをもっと良くしようと思って、自縄自縛になっている自分を解き放って、「何かやるぜ」と言う人は、やっぱり何かを背負っていて、想いがあるから、そこで「リスクを取ってやろう」という気持ちになれるんだと思うんです。その時に、さっきの芹澤さんの話だと、ずっと修行をやってきて、技とか知識をどんどん身につけて、明日は今日よりもっとよくなる、明後日はもっと良くなるという想いで毎日修行しているわけじゃないですか。その中で、様々な歴史の重みとか、先人たちの努力とか、色々なものを一日毎に背負込んでいって、背負うものを背負った時に、「多少のリスクを冒してでもやってやるぜ」という気持ちになれるということで。さっき、「やんべぇよ」という話をした時も、「やんべぇよ」って、要するに「どうなるかわからないけれど、失敗するかもしれないけれど、まずはやってみよう」という、この心意気じゃないですか。
芹澤:そうですね。
井手:それってやっぱり、背負うもの背負っている人たちが、何とかしなければいけないと思っている人たちの気持ちが、滲み出すような言葉のような気がするんですよね。
芹澤:「なんとかしてやろう」という原動力が、自分のためというものではないんですよね。自分のために何かしようという事の前に、人のためだから頑張れる・・・、自分のためだけだったらくじけちゃうんだと思うんです。諦めれば済むことだし。でも、もっとエネルギーがいるということは、先生がおっしゃった使命感を背負込んでいるからだと思う。僕は、小田原のまちにある文化や象徴的な建物は、市役所には任せていられない。こんな大事な、先人たちが積んできたものを、とてもじゃないけれど任せられないという気持ちを持っています。だから、自分がいて、小言を言っていれば、少なからず影響があって、今、ちょっとでも「守らなければいけないんだな」という気持ちになってくれただけでも、自分のいる存在というのはそこで芽生えるのかなと。だから、こうして色々な所で表に出て、それがまた、一緒に頑張っている一つの力になって。そういうものを背負込んでいるからこそ、それは結局は自分のため、家族のためになるかもしれないけれど、それだけでは全然物足りない使命感なんですよね。